実母を山岳葬で見送る

11年に及ぶ母の自宅介護

長年アルパインクライミングをしていた私は、これまでに南米など世界中の山々を訪れていました。気楽な母との二人暮らし。自由に仕事をし、自由に海外長期遠征に行っていました。

しかし徐々に年老いていく母は介護が必要となり、クライミングの為の海外遠征は年々難しくなり、それまでしていた地質調査コンサルタントの仕事の方も出張が多い関係から続けることが難しくなっていきました。

ヘルパーやケアマネの方々の協力を得ながら、自らの手で自宅でずっと母の介護を続けてきましたが、それでも母の状況は年々悪くなっていきました。先の見えないたった一人の戦いを支えていたものは「山に登りつづける」というモチベーションだけだったと思います。

状況が悪くなるばかりの2008年、非常に幸運なことに友人の多大な協力が得られて、毎年秋に長期に家を空けることができることとなりました。

そこで秋がポストモンスーン期となるネパールの山なら登れると、2008年から毎年のネパール通いがはじまりました。

 

ネパールではロールワリン地方やランタン地方の山々で登頂を狙い続け、通い続けるごとにネパールでの知り合いもふえ、2015年ネパール震災からは復興のためのボランティア活動にも従事するようになっていきました。

 

年々アルツハイマーとパーキンソン病の病状が進行する母親を自宅介護ながら、年に一度ネパールに渡る。
いつ終わるとも知れない介護生活が続きました。

 

母の葬儀

年に一度ネパールに通うようになってから、7年目の冬。
クライミングに老いを感じるようになった頃、ついに老母が亡くなりました。

そろそろ最期の時が近いと分かっていた私は、亡くなった際の手続きは事前に調べておいていました。

母が亡くなってからは予定していた通りスムーズに火葬の手続きを終え、私の手元には遺灰が戻ってきました。

母は熱心なキリスト教徒でしたので、寝たきりになった後も定期的に訪問をしてくださっていた教会の方の勧めで、キリスト教式での小さな葬儀を執り行いました。ごく少数の親しい身内だけに囲まれた、暖かい式となりました。

私自身は積極的に無宗教の主義をつらぬいており、母と相談のうえで、代々の墓は手放すことを決めていました。

アルパインクライミングをしている人間にとって、死はいつ訪れてもおかしくない身近なものです。海外遠征に行く度に遺書を書き残していた私は、母が生前まだ元気だったころから、お墓は残さない、という合意をしていました。

さて、手元の遺灰をどうするか。

そう考えたときに私の頭に浮かんだのは、母が亡くなったら移住しようと決めていたネパールの眺めの良い風景、そしてそこに咲くヒマラヤ桜の事でした。

ヒマラヤが見える丘で散骨

母が亡くなって約一か月、遺骨の入った小瓶を携えて飛行機に乗りました。

まだ散骨場所を明確に決めていなかった私は、なじみの村を拠点にし、数日間かけてマウンテンバイクで山々を回りました。母が喜んでくれそうな場所を探して。

そして何か所目かの見晴らしの良い丘に立った時、ここが良いと決めました。

毎年11月頃に花を咲かせるヒマラヤ桜の立派な木の袂に、小瓶の中の遺灰を埋めました。

私は満足のいく形で母を送ることができたと思っています。

これが私の散骨の体験記です。